STUDIO LUMIERE  

「 写真のようなモノ 」

「昨夜、都内の宝飾店の入口がバールのようなもので壊され…」
といった物騒なニュースを耳にする度に、入口を壊すのに使われた凶器が
どのようなモノなのか気になって仕方ありません。
いったい「バールのようなモノ」とは?
「のような物」ということはバールそのものではないのでしょうか?
たしかに、似た道具には「金テコ」や「根きり」といった道具があります。
ひょっとするとそんなちゃんとした道具などではなく、その辺で拾ったような
鉄パイプのようなモノかも知れません。誰も犯行現場を見ていないわけですから、
状況から推察して、「そのようなモノ」ということなのでしょう。
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さて、そんな怪しき「のようなモノ」これはどんな世界にも存在します。
我らが写真の世界も例外とは言えないでしょう。
デジタル化により、フィルム時代に比べ修正や加工が驚くほど手軽で巧妙?
にできるようになりました。じゃまな物は消し去り、無い物を合成するのも、
今や、さしたる技ではなくなったのではないでしょうか?

そうして出来上がった「写真のようなモノ」は、作者が「写真だ」と言えば「写真」で良いのでしょうか?
それとも新たなカテゴリーとして名前を与えるべきなのでしょうか?
その過程は作者のみが知る秘め事で「これは写真なのだ!」そう言い切ってしまえば
一件落着なのでしょうか?
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「対象を正確に記録する」ことの意味を含め、何が写真たり得るかをいま一度見直す時期かもしれません。
写真の定義にまでおよぶかもしれませんが、「正確な記録」という言葉に固執するなら、
そもそも三次元が二次元に置き換えられることは加工以上のことではないでしょうか?
モノクロはどうでしょう?色のない世界は正確な記録と言えるのでしょうか?
魚眼レンズのような特殊なレンズを使うことはデジタルにおける加工とどう違うのでしょう?
証明写真などで、加工修正されたことに気が付く人がいなければ、
それはそれで立派に証明写真なのかもしれないのです。
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悪意のある加工を容認しようということではありません。
もちろん写真コンテストなどの規定は守らなければいけません。
そこは、ルールに乗っ取って競い合う場所です。
決められたルールに従いたくないと言うのなら土俵から降りるしかないでしょう。
リング以外で好き放題に相手を殴るのはただの無法者です。

「自分の意図するところを昇華させる」という目的で実際に存在するものを、消し去ることや、より重要な要素を貼り付けることは「真の意味での写真表現である」と言うことも出来なくはないでしょう。どんな題材であろうと、どんな技法に依ろうと、作者が写真と言うモノを尊重したうえで生まれ出た作品を「写真」と呼ぶことに問題は無いように思えるのです。
写真のイデー(イデアのドイツ語訳。感覚されうる個物の原型・範型としての形相、主観的な表象ないし観念の両義:世界大百科事典 第2版より)が、先祖の霊のようにその作品に寄り添っているように思えます。
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さて。破壊に使われた道具はバールのようなモノ。バールというイデーが存在しなければ、「のようなモノ」も存在しないのです。両者は親子のようなものでしょう。「のようなモノ」である以上、想像を絶するような未知の道具ではなく、少なくとも一見、親子のように見えなくては。なるほど、夜目や遠目には「バール」も「金テコ」も「根切り」も「鉄パイプ」もみな兄弟に違いないでしょう。
「写真のようなモノ」もまたしかり。写真というイデーから遠く離れては成立しないのです。
合成や極端な修正を加えたところで、一見では写真そのものに見える、
それがやがて新しいカテゴリーのメディアやアートになってゆくのかもしれません。
みなさんは写真表現者として、とても面白い時代に写真と関わっているのだと思います。
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by mooriyan | 2014-09-24 08:16 | mooriyan